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2008年2月

赤城山

群馬県のにある雄大な火山です!

赤城山 (あかぎやま) は関東地方の北部、群馬県のほぼ中央に位置し、カルデラ及びカルデラ湖を持つ関東地方で有数の複式火山である。榛名山妙義山と並び、上毛三山の一つに数えられている。また、日本百名山の一つにも選ばれている。「あかぎさん」と呼ばれることもある。中央のカルデラの周囲を、円頂をもつ1200-1800mの峰々が取り囲み、その外側、標高にして大体800m以下は広く緩やかな裾野の高原台地をなしている。カルデラ内の大沼の東岸、最高峰黒檜山の山麓にあたる場所に赤城神社があり、山麓各地に里宮があるほか、関東一円に末社が分布している。

火山活動

50万年前に活動を開始し、標高2300m程度の安山岩質(Sio2 54~60%)の溶岩スコリアから成る成層火山を形成した。20万年前ごろから二酸化ケイ素の量が増えて溶岩がデイサイト質になり、それに伴い爆発的噴火が多発し、火砕流や山体崩壊による岩屑なだれが山麓に流下して現在の広い山麓を形成した。約5万年前には湯の口降下軽石を噴出し現在の山頂カルデラを形成した。3万年前には鹿沼降下軽石を噴出した。約2万年前に地蔵岳溶岩ドームと小沼タフリングを形成した。これを最後に大規模なプリニー式噴火は途絶えている。

最新の噴火

吾妻鏡」の中に「建長三年四月十九日(1251年5月11日)赤木嶽焼」(赤木嶽は当時の呼び名)とある。この記述を理由に気象庁の指定する活火山になっている。しかし、噴火に相当する堆積物は見つかっておらず。カルデラ内の最新の火口地形(同時噴火で形成された小沼タフリング・血の池火口)は6世紀の榛名伊香保降下軽石が表面を覆っている。しかもこれらの火口は約2万4000年前に形成されたらしい。そのため山火事の可能性が高い。南麓の寺の火事という説もある。そのため1万年以内に噴火した火山である活火山には入らないというのが専門家の中で有力視されてきている。赤城山を活火山にするかは専門家の間での議論が必要である。

山の構成

最高峰の黒檜山(くろび-、1828m)をはじめ、駒ヶ岳(1685m)、地蔵岳(1674m)、長七郎山(ちょうしちろう-、1579m)、鍋割山(なべわりやま、1332m)などの山頂を持つ。赤城山は、その総称である。

中央部のカルデラ内には、火山湖大沼(おおぬま、おの)や覚満淵(かくまんぶち)、タフリングの小沼(こぬま、この)がある。

また、地蔵岳山頂には、各電波通信の赤城中継局が置かれている。

赤城おろし

冬期の関東平野に特有の「空っ風」とも呼ばれる北風は、赤城山の方角から吹くことから、「赤城おろし」の名がある。上毛かるたの読み札には『雷と空っ風 義理人情』とあり、群馬県を語る上で空っ風の存在ははずせない。

山の呼称

赤城山は古くから地元ではあかぎやまと呼ばれて親しまれていたのだが、国土地理院の地図にはあかぎさんと記載されていた。これは当時の規則により「山」を「さん」と読むと規定されていたからだが、地元群馬県民などには「あかぎやま」と親しまれていたのと、長年の陳情の結果「あかぎやま」と改称された。赤城山周辺の各町村に大字赤城山があるが、こちらは「あかぎさん」のままである。

赤城山にまつわる伝説・伝承

日光男体山の麓の戦場ヶ原には、男体山の神と赤城山の神が大蛇と大ムカデになって戦い、男体山の神が勝利をおさめた、という伝説がある。赤城山の北にある老神温泉の地名は、このとき落ち延びた神が追われてやってきたことに由来するといわれ、また「アカギ」という山名も神が流した血で赤く染まったことから「赤き」が転じたという説もある。

江戸川沿いにある千葉県流山市には、赤城神社の祀られた小山があり、大洪水の際に赤城山の山体の一部が流れてきたものだ、という伝説がある。「流山」という地名はこれに由来するという。

赤城山といえば、忘れてならないのが上州・国定忠治。明治、大正、昭和初期に講談や新国劇の題材として大人気だった。国定忠治の一節の「赤城の山も今宵限り・・・かわいい子分のてめえ達とも、別れ別れになる門出だぁ」の台詞で、この山の名前が全国に広がった。

参考:wikipedia

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妙義山

上毛三山のひとつです。

赤城山榛名山と共に上毛三山の一つに数えられる。急勾配の斜面と尖った姿が特徴的で日本三大奇勝の一つである。妙義山は、白雲山・金洞山・金鶏山・相馬岳・御岳・丁須ノ頭などを合わせた総称で、南側の表妙義と北側の裏妙義に分かれている。特に下仁田側から眺望できる金洞山は別名中之嶽と呼ばれ、親しまれてきた。奇岩がいたるところに見られる妙義山の中でも中之嶽の景色は圧巻で、中腹を巡る第1石門から第4石門を始め、ロウソク岩・大砲岩・筆頭岩・ユルギ岩・虚無僧岩といったユニークな名前の岩石群は日本屈指の山岳美と讃えられている。石門巡りコースは中之嶽神社が発着点となっている。妙義山東面中腹には荘厳な妙義神社が建立されている。

妙義山に因む名前

群馬県内の小学校では、運動会のときの組分け上毛三山の名前を用いて、赤城団(赤)、榛名団(緑)、妙義団(黄)の3組とし、対抗させる例が多数存在する。(地域によって異なり、また人数が少ないと紅組、白組とする場合もある。浅間(白)のが加わることもある)

妙義山に関する作品

参考:wikipedia

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白山

ここも日本三名山のひとつです。

最高峰の御前峰(標高2,702m)・剣ヶ峰(2,677m)・大汝峰(2,684m)の「白山三峰」を中心として、周辺の山峰の総称である。そのため厳密に、現在の県境には、石川・福井・岐阜・富山に跨る。また、別山・三ノ峰を加えて「白山五峰」という。 北陸地方の中では標高の高い山であるため、他の山では残雪が消えた季節でも「白い」山として遠方からでも一目で判明できる山である。

日本ではこれより西には2,000m以上の山がないため、2,000m超級の高山として最西端の山となる。

歴史・文化

泰澄上人により717年養老元年)に開山された。古くから霊峰として信仰され、山頂付近には加賀国一宮である白山比咩神社の奥宮がある。

自然

白山一帯は1955年国定公園に指定。1962年国立公園(白山国立公園)に指定された。白山の中腹は急峻なところが多く、道路もほとんど無いため人跡未踏の場所も少なくない。

植物

白山は日本有数の花の山としても知られ、砂防新道を登る場合、甚ノ助小屋を越えた辺りから、さまざまな高山植物の花畑が広がる。中でもクロユリは日本一の個体数と言われ、群生するさまはみごとである。クロユリは石川県の県花にもなっている。

ハクサンイチゲハクサンフウロをはじめ「ハクサン」を冠する植物名は多く、ゴゼンタチバナも最高峰・御前峰に由来している。白山は日本で高山帯を有する山岳としてはもっとも西に位置している。そのため早くから植物の研究が進み、「ハクサン」の名が付く植物が多い。近年、もともと白山には植生しないコマクサが見られるようになり、生態系を乱す行為として種の持ちこみが懸念されている。

白山の中腹にはブナ原生林が広がり、巨大なブナが林立し、中宮道では幹周5mを越えると言う、日本有数の巨木も有る。

動物

白山には、石川県の県鳥であるイヌワシが生息している。また、かつて白山にもライチョウが生息していたが、明治の頃に白山のライチョウは絶滅した。

地質等

白山山麓周辺には、日本で数少ない中生代ジュラ紀の古い地層が分布し、日本を代表する恐竜化石の出土地となっている。なかでも桑島地区には化石でできた露頭があり、桑島化石壁と呼ばれている。

また、白山周辺には温泉が多い。白山中腹はもちろん、加賀温泉郷、庄川温泉郷なども白山由来の温泉であると考えられている。尾添にある渓谷には温泉が自噴し、温泉の成分が凝結してできた塊が塔状になって林立している所がある。岩間噴泉塔群と呼ばれ、国の天然記念物となっている。

山小屋

白馬岳白馬山荘に次ぐ日本で2番目の収容人員750人の山小屋。開設期間は5/1~10/15。5/1~6/30は自炊のみ。7~8月は簡易郵便局、簡易診療施設(夏山診療所)もあり。

登山道

よく利用される登山道は、

  • 観光新道
  • 砂防新道
  • 平瀬道

の3ルートがよく利用される。観光新道・砂防新道は石川県白山市別当出合が、平瀬道は岐阜県大白川ダムが起点となる。砂防新道は、眺望に乏しいものの所要時間が短く、日帰り登山の片道に利用される事が多い。平瀬道はブナ林を行き、北アルプス展望が出来る、展望と自然を楽しむ登山道で、日帰りも難しくない。

白山は国立公園の指定が古く、新たな開発がほとんど行われていない。人の手の入っていない地域が広いため、上記の3つの登山道以外はアプローチが長くなり、登山口から山頂まで2~3日の行程が必要な場合もある。

参考:wikipedia

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立山

日本三名山、百名山に数えられる素敵な山!

立山は、最高峰の大汝山(おおなんじやま、3,015m)、主峰の雄山(おやま、3,003m)、富士ノ折立(ふじのおりたて、2,999m)の3つの山からなる。雄山の山頂には、雄山神社本宮がある。

立山・浄土山別山を「立山三山」、立山を含む山稜を「立山連峰」という。立山連峰は富山県のほぼ全域から見ることができる。

また、富山県高岡市雨晴海岸から能登半島石川県珠洲市までの富山湾沿岸からは、天候のよい時には海越しに3,000m級の山々を一望することができる。

主峰の雄山の標高は、1等三角点の標高から長らく2,991.6m(2,992m)とされてきたが、雄山三角点は最高地点の山頂ではなく、雄山神社社務所の隣のため、神域である山頂からはかなり低い位置である。

古くは「たちやま」と呼ばれていた。ただし、たちやまは「太刀山」であるとし、本来は剱岳のことであるとする説もある。

開山

立山は、古くから立山修験と呼ばれる山岳信仰の対象であった。

開山者は飛鳥時代(文武天皇)の越中国守・佐伯有若の息子有頼という少年と伝えられる。伝説によれば、有頼が父の白鷹で狩をしているときにが逃げてしまい、それを追いかけているうちにが現れた。有頼が矢で熊を射ると、熊は血を流しながら逃げていった。血をたどってついた室堂の洞穴で有頼が見たものは、矢を射立てられた阿弥陀如来であった。それを見た有頼は発心し、立山寺(現在の雄山神社前立社壇)を建立したと伝えられている。

近世以降、立山に信仰登山する人は増え、また立山曼荼羅と呼ばれる山中の地獄極楽図、巡礼図が盛んに作られた。立山は実際に山頂エリアに地獄(古い日本語で温泉の意味)がある山としても知られる。

現在、立山の山荘経営者や山麓の芦峅寺地区の住民の名字は「佐伯」「志鷹」の2つが大半を占めるが、これはこの開山伝説にちなむものと考えられる。

立山登山

越中では大人になるための証として立山(雄山)に登る習慣があった。山麓の芦峅寺は古来、巡礼者のための登山基地として繁栄し、かつては多くの宿坊が建ち並んでいたという。また芦峅寺の布橋では大灌頂と呼ばれる修験の法会が行われ、盛況であったという。 今でも、富山県内の多くの小学校で、学校行事として立山登山を行っている。

黒部ダム建設の後、立山黒部アルペンルートが開通したため標高2,450mの室堂までバスで行くことができ、立山登山も手軽に行えるようになった。その反面、登山者以外にも観光客が毎年大量に室堂周辺に登ってくるようになったため、自然保護の課題に直面している。

参考:wikipedia

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富士山

やはりこの山なしでは話にならないでしょう。

富士山の優美な風貌は、国内のみならず海外でも日本の象徴として広く知られている。芙蓉峰富嶽(富岳)などとも呼ばれる。古来より歌枕として著名である。

古来より霊峰といわれ、富士山を開いたのは、平安末期の1149年久安5)山頂に一切経を埋納した富士上人と称された末代(まつだい)であると伝えられている(『本朝世紀』)。江戸時代後期の1800年寛政12)まで富士山は女人禁制であった。

富士五湖が富士山山麓周辺にあり、キャンプ場や観光名所がある。また、登山道は、富士宮口、須走口、富士吉田(河口湖)口、御殿場口などがある。

地質学上の富士山

地質学上の富士山は典型的な成層火山(コニーデ)であり、この種の火山特有の美しい稜線を持つ。日本の地質百選の一つ。

現在の富士山の山体の形成は、大きく四段階に分かれる。

  1. 先小御岳
  2. 小御岳
  3. 古富士
  4. 新富士

この中で先小御岳が最も古く、数十万年前の更新世にできた火山である。

古富士は8万年前頃から1万5千年前頃まで噴火を続け、噴出した火山灰が降り積もることで、標高3000メートル弱まで成長した。山頂は宝永火口の北側1–2キロメートルのところにあったと考えられている。

噴火史

最終氷期が終了した約1万1千年前、古富士の山頂の西側で噴火が始まり、溶岩を大量に噴出した。この溶岩によって、現在の富士山の山体である新富士が形成された。その後、古富士の山頂が新富士の山頂の東側に顔を出しているような状態となっていたと見られるが、約2500–2800年前、風化が進んだ古富士の山頂部が大規模な山体崩壊(「御殿場岩なだれ」)を起こして崩壊してしまった。

新富士の山頂から溶岩が噴出していたのは、約1万1千年前–約8000年前の3000年間と、約4500年前–約3200年前の1300年間と考えられている。これ以降、山頂部からの噴火は無いが、長尾山や宝永山などの側火山からの噴火が断続的に発生している。

延暦19年 - 21年(800年-802年)に延暦噴火、貞観6年(864年)に貞観噴火。最後に富士山が噴火したのは宝永四年(1707年)の宝永大噴火で、噴煙は成層圏まで到達し、江戸では約4センチメートルの火山灰が降り積もった。その後も火山性の地震や噴気が観測されており、今後も噴火の可能性が残されている。

東京大学地震研究所が2004年4月に行ったボーリング調査によって、小御岳の下にさらに古い山体があることが判明した。この第4の山体は先小御岳と名付けられた(詳しくは富士山の噴火史を参照)。

生態系

富士山は標高は高いが、日本の他の高山に比較すると高山植物などの植生に乏しい。これは富士山が最終氷期が終了した後に山頂から大規模な噴火が繰り返したために山の生態系が破壊され、また独立峰であるため、他の山系からの植物の進入も遅れたためである。

中部山岳地帯の高山の森林限界の上にはハイマツ帯が広がっているのが通例であるが、富士山にはハイマツ帯は欠如し、その代替にカラマツ林が広がっている。

伏流水

富士山に降った雨、雪は長い年月伏流水として地下水脈を流れ湧き出てくる。

山頂の八峰

山頂の直径約800メートルの火口の周りに8つの峰がある。

  • 剣ヶ峯 - 3776 m ここが、日本の最高標高地点である。
  • 白山岳(釈迦ヶ岳) - 3756 m
  • 伊豆ヶ岳(阿弥陀岳) - 3740 m
  • 朝日岳(大日岳)- 3730 m
  • 勢至ヶ岳(成就ヶ岳) - 3730 m
  • 三島岳(文殊ヶ岳) - 3730 m
  • 久須志岳(薬師ヶ岳) - 3720 m
  • 駒ヶ岳(浅間ヶ岳) - 3710 m

宝永山

宝永山(ほうえいざん)は富士山で最も目立つ側火山(寄生火山)であり、1707年宝永四年)の噴火で誕生した。富士山南東斜面にあり標高は2693 mである。宝永山の西側には巨大な噴火口が開いている。

記録に見る富士山

万葉集の中には、富士山を詠んだ歌がいくつも収められている。

「田子の浦に うちいでてみれば 真白にぞ ふじの高嶺に 雪は降りける」 (3.318) は山部赤人による有名な短歌(反歌)である。

噴火の年代が考証できる最も古い記録は、続日本紀に記述されている、天応元年(781年)に富士山より降灰があったくだりである。平安時代初期に成立した『竹取物語』にも、富士山が作品成立の頃、活動期であったことを窺わせる記述がある。

江戸時代に、最も激しい活動を見せたのは宝永四年(1707年)12月16日に発生した大爆発であり、江戸の市街に大量の降灰をもたらした。この記録については、文書、絵図等により多数残されている。
その後も、噴煙や鳴動の記録は多く残されているが、記述から見て短期間かつ小規模な活動で終わったものと推測される。

参考:wikipedia

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