富士山
やはりこの山なしでは話にならないでしょう。
古来より霊峰といわれ、富士山を開いたのは、平安末期の1149年(久安5)山頂に一切経を埋納した富士上人と称された末代(まつだい)であると伝えられている(『本朝世紀』)。江戸時代後期の1800年(寛政12)まで富士山は女人禁制であった。
富士五湖が富士山山麓周辺にあり、キャンプ場や観光名所がある。また、登山道は、富士宮口、須走口、富士吉田(河口湖)口、御殿場口などがある。
地質学上の富士山
地質学上の富士山は典型的な成層火山(コニーデ)であり、この種の火山特有の美しい稜線を持つ。日本の地質百選の一つ。
現在の富士山の山体の形成は、大きく四段階に分かれる。
- 先小御岳
- 小御岳
- 古富士
- 新富士
この中で先小御岳が最も古く、数十万年前の更新世にできた火山である。
古富士は8万年前頃から1万5千年前頃まで噴火を続け、噴出した火山灰が降り積もることで、標高3000メートル弱まで成長した。山頂は宝永火口の北側1–2キロメートルのところにあったと考えられている。
噴火史
最終氷期が終了した約1万1千年前、古富士の山頂の西側で噴火が始まり、溶岩を大量に噴出した。この溶岩によって、現在の富士山の山体である新富士が形成された。その後、古富士の山頂が新富士の山頂の東側に顔を出しているような状態となっていたと見られるが、約2500–2800年前、風化が進んだ古富士の山頂部が大規模な山体崩壊(「御殿場岩なだれ」)を起こして崩壊してしまった。
新富士の山頂から溶岩が噴出していたのは、約1万1千年前–約8000年前の3000年間と、約4500年前–約3200年前の1300年間と考えられている。これ以降、山頂部からの噴火は無いが、長尾山や宝永山などの側火山からの噴火が断続的に発生している。
延暦19年 - 21年(800年-802年)に延暦噴火、貞観6年(864年)に貞観噴火。最後に富士山が噴火したのは宝永四年(1707年)の宝永大噴火で、噴煙は成層圏まで到達し、江戸では約4センチメートルの火山灰が降り積もった。その後も火山性の地震や噴気が観測されており、今後も噴火の可能性が残されている。
東京大学地震研究所が2004年4月に行ったボーリング調査によって、小御岳の下にさらに古い山体があることが判明した。この第4の山体は先小御岳と名付けられた(詳しくは富士山の噴火史を参照)。
生態系
富士山は標高は高いが、日本の他の高山に比較すると高山植物などの植生に乏しい。これは富士山が最終氷期が終了した後に山頂から大規模な噴火が繰り返したために山の生態系が破壊され、また独立峰であるため、他の山系からの植物の進入も遅れたためである。
中部山岳地帯の高山の森林限界の上にはハイマツ帯が広がっているのが通例であるが、富士山にはハイマツ帯は欠如し、その代替にカラマツ林が広がっている。
伏流水
富士山に降った雨、雪は長い年月伏流水として地下水脈を流れ湧き出てくる。
山頂の八峰
山頂の直径約800メートルの火口の周りに8つの峰がある。
- 剣ヶ峯 - 3776 m ここが、日本の最高標高地点である。
- 白山岳(釈迦ヶ岳) - 3756 m
- 伊豆ヶ岳(阿弥陀岳) - 3740 m
- 朝日岳(大日岳)- 3730 m
- 勢至ヶ岳(成就ヶ岳) - 3730 m
- 三島岳(文殊ヶ岳) - 3730 m
- 久須志岳(薬師ヶ岳) - 3720 m
- 駒ヶ岳(浅間ヶ岳) - 3710 m
宝永山
宝永山(ほうえいざん)は富士山で最も目立つ側火山(寄生火山)であり、1707年(宝永四年)の噴火で誕生した。富士山南東斜面にあり標高は2693 mである。宝永山の西側には巨大な噴火口が開いている。
記録に見る富士山
万葉集の中には、富士山を詠んだ歌がいくつも収められている。
「田子の浦に うちいでてみれば 真白にぞ ふじの高嶺に 雪は降りける」 (3.318) は山部赤人による有名な短歌(反歌)である。
噴火の年代が考証できる最も古い記録は、続日本紀に記述されている、天応元年(781年)に富士山より降灰があったくだりである。平安時代初期に成立した『竹取物語』にも、富士山が作品成立の頃、活動期であったことを窺わせる記述がある。
江戸時代に、最も激しい活動を見せたのは宝永四年(1707年)12月16日に発生した大爆発であり、江戸の市街に大量の降灰をもたらした。この記録については、文書、絵図等により多数残されている。
その後も、噴煙や鳴動の記録は多く残されているが、記述から見て短期間かつ小規模な活動で終わったものと推測される。
参考:wikipedia
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